本書「ドビュッシーの音楽における生と死」は、フランスの哲学者ヴラディミール・ジャンケレヴィッチ(Vladimir Jankelevitch 1903-1985)の代表的な音楽論の1つ。

ジャンケレヴィッチの音楽論は、伝記ではなく分析論でもない。感想や評論とも違う。ではどんなものかと言うと、最新の読譜に基づきながら直感によって楽譜の背後に潜む作曲家の思想や深層心理にまで達する1つの想念が打ち立てられている。

それは歴史上の哲学・文学・美術などに裏付けられています。ジャンケレヴィッチは自身が「ピアノによって音楽と繋がって」おり、「自分の指で我が物に出来る音楽が好き」なのだそう。

そんなジャンケレヴィッチによる本書から、気になったところをご紹介したい。

アルペジオが表すもの

ジャンケレヴィッチは書いている。

メリザンドの指環が第二幕で水の底に沈む時は、長大なアルペジオが5オクターブもの高みから突然に転げ落ちてくるし、「荒野をわたる風」では平行七度が静かに雲から雲へと滑り降り、また「雨の庭」ではアルペジオが滝となって深淵へ落ち込んでいく。

なるほど。アルペジオが滝となって深淵へ落ちていくとは、もうその様子があなたの中にも広がっていくように描かれているのではないでしょうか?音で感じられるもの、イメージで感じられるものがあるけれど、言葉でこれほど音と絵と空間と動きを表せるのは素晴らしい。

下降アラベスクが表すもの

ジャンケレヴィッチは下降アラベスクについて以下のように説いています。

下降アラベスクが、時に「水に映る影(水の反映)」の最初に見られるように、けだるい優しさにあふれることも有る。しかし「愛し合う二人の散歩道」第3曲の”あなたの顔を見て私はおののく”における甘美な愛撫のように、軽く触れることもある。

同じ種類の動きでも、全く同じ感覚を表しているとは限らないし、同じように受け止められるとも限りませんよね。

半音階が表すもの

あなたは半音階または半音程の動きを弾く時、または聴いた時に、どんな気持ちになるでしょうか?ジャンケレヴィッチは半音階について、こう書いています。

クラリネットのための「狂詩曲」の最後の数小節でも、恐怖を起こす半音階の陰鬱な風が吹き抜ける。これは美しかった「狂詩曲」が、目に見えない影に追われて不協和になり、息を弾ませて取り乱し、ついには敗走する姿なのだろうか?

是非とも半音階を味わってみたいものですね。

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雨足の音とは

ドビュッシーの作品には「水」に関するものが多い。しかし「水」と一言で言っても、その種類は様々。「雨」だっていろいろある。川を流れる水だってそうだよね。穏やかな日の水の流れと嵐の日とでは、その姿は全く違う。

ジャンケレヴィッチは語る。

雨足の音は、何よりも特にドビュッシー的なものだ。雨とは水の要素が水滴となって、無数に並んで空間を落ちていくものだからである。空が風解して下の水と出会い、それと合体するものもあれば、噴水や浪のように雲が粉々になって落ちるものもある。

ドメル・ディエ二夫人は「雨の庭」について、「水滴がクラヴサン音楽風に、ホ短調で規則正しく、容赦なく舞い落ちてくる」と語っている。

現代の私達の生活を見渡してみても、実に様々な水や雨を感じられるでしょう。

ドビュッシーは対極性を嫌っていた?

ドビュッシーの二台のピアノのための作品に、「白と黒で」というものがある。「白と黒で」と言うと、それは対極のものか対称のものを表しているように受け取られがちだ。しかし、ドビュッシーはロマン的な体句は得意ではなかったし、好きではなかったそうです。

印象主義的なドビュッシーの専門は「定かならざるものと定かなるものが入り交ざる灰色の歌」であって、バレット上で多色配合することではない。無限小の段階にまでニュアンスを分けることであったそうだ。

ドビュッシーは単純な対極性を嫌っていて、音楽と騒音の境にあるような、ざわめきと区別できない「霧の和音」を試みていた。

最も調和しない響き

最も調和しない響きとは、最も小さな音程である二度のこと。このニオとはお互いを鈍らせることがないため、その摩擦効果が増します。

例えば「雨の庭」の芝生には、にわか雨の後に滴る二滴の露のように2つの長二度が静かに落ちる。「花火」の二度は、まさしく光滴で光の粉の雨を描いている。

しかし二度は無色であろうとすることも多い。例えば「子供の領分」の”像の子守唄”では、象がペタペタ歩く様子を創造させながら子守唄のリズムを取るユーモラスな低音の二度がありますね。

運動:旋回について

ドビュッシーの「映像第1集」第3曲の”運動”について、とても興味深い解説がある。

ドビュッシーの音楽が、運動の精によって活気づくように見えるときでさえ、その動きには停滞感がある。速さは必ずしも前進を意味するものではなく、ドビュッシーにおける運動は実際の動力学というよりはむしろ運動学に属するものだ。

「映像第1集」の”運動”は真の動きではなく、その場を動かない運動である。無窮動なのだ。この運動は、場を動く移動ではなく進行でも前進でもなく、きわめて急速な足踏みである。それは、どこへも行かない運動だ。

抽象的に言えば「運動のための運動」だ。

「その場を動かない運動」という表現に、私が今まで感じていた「運動(動き)」がピタッとはまったような心地よさを覚えました。このドビュッシーの「運動」は、クラシック音楽というくくり(垣根)を超えた作品だと思います。

ドビュッシーのピアニシモ

ドビュッシーでは最初のピアニシモが朗々と響き渡るピアニシモになっていることがよくある。ドビュッシーは、空間への音の「立体音響的拡散」に驚くほど敏感であるが、フランスのピアノ音楽全体に、響きに対する同じような貪欲さが見られる。

ドビュッシーの「響き渡るピアニシモ」は、「柔らかく、しかし響かせて」という指示によって、完全に光る音へ・クレッシェンドへ・朗々とした響きへ向かっていることがわかる。

本日ご紹介した本はこちらです。

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