今日3月31日は、ハイドンの誕生日です。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは(1732年3月31日-1809年5月31日)のオーストリアの作曲家です。

「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」とも呼ばれるほど、たくさんの交響曲と弦楽四重奏曲を作曲しました。
(交響曲は、番号が付けられているのが104番までと番号なしが3曲、そして協奏交響曲が1曲あります。弦楽四重奏曲は68曲。)

ハイドンさんってどんな人だったの?

ハイドンさんは1732年に、当時ハンガリー王国との国境にあったローラウという街に生まれました。おじさんに音楽学校の校長をしていた人がいて、そのおじさんに音楽の才能を認められ、おじさん=マティアス・フランクのもとで勉強を始めたようです。

1740年にウィーンのシュテファン大聖堂のロイターさんに才能を認められてウィーンへ移住。長らくシュテファン大聖堂の聖歌隊にいました。その後、変声期をむかえて聖歌隊を解雇されます。しかしそれから必死で勉強して、次第に認められていきます。

その後いろいろありましたが、1761年にハンガリーの大貴族エステルハージ家の副楽長に就任してから、30年近くエステルハージ家に仕えました。この間に多くの作品を生み出し、ハイドンはエステルハージ家のためだけではなく、出版する目的でも作曲するようになっていました。

代替わりがあると、人事異動があるのは現在の社会でもよくあることですが、エステルハージ家の主人ニコラウス公爵が1790年に亡くなると、後継者のアントン・エステルハージ公爵は音楽に無関心だったため、ハイドンは解雇されてしまいます。(エステルハージ家に仕えていた他の音楽家たちもほぼ解雇)

その後のハイドンは、イギリスを訪れての演奏会が大成功!この頃に、ハイドンの有名な「驚愕」「軍隊」「太鼓連打」「ロンドン」といった交響曲が作曲されました。

イギリスで大成功したハイドンは、イギリスへの移住も考えたようですが、結局はウィーンに帰りました。1802年に持病が悪化し、1809年にナポレオンがウィーンを侵攻する中で77歳でこの世を去りました。

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ハイドンの名による作品

ハイドンと言えば、その名「HAYDN(シラレレソ、の音にあたる)」を用いた「ハイドンをたたえる」曲が、後世の作曲家達によって作られています。

ハイドンの没後100年であった1909年に、フランスの音楽雑誌が企画した事に端を発するようです。それに応じたのが、ラヴェル・ドビュッシー・デュカス他。

人の名前の綴りを(アルファベットを)音に置き換えてテーマにする、言葉遊び/音遊びのような曲は他にもたくさんありますが、私もそんな曲が好きです。

というわけで、ラヴェル作曲「ハイドンの名によるメヌエット」をお聴き下さい。

3月31日は作曲家ハイドンの誕生日だからハイドンの作品に触れてみよう!

今回は「ハイドンの名によるメヌエット」という、ラベルの作品をご紹介しましたが、ハイドンの作品も素晴らしいものがたくさんあります。ぜひ今日はハイドンの作品に触れてみてくださいね。

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