【ピアノ曲紹介】ポーランドの作曲家シマノフスキのピアノ名作「変奏曲」Op.3
あなたはポーランドと言うと、何を思い浮かべますか?
ポーランド出身の作曲家と言ったら?ショパン?それともモシュコフスキかしら?
えぇ、そうですね。他にもポーランド出身の作曲家さんはいますが、今日はシマノフスキさんとそのピアノ作品を1つご紹介しましょう。

あら、なかなかのイケメン♪ダンディですねぇ。
こんな瞳で語りかけられたら失神してしまいそう・・・あ、失礼しました(笑)。
Contents
ポーランドの作曲家シマノフスキさんってどんな人?
まずはポーランドを代表する作曲家の1人、シマノフスキさんについて簡単にお話しましょう。
カロル・マチエイ・シマノフスキ(Karol Maciej Szymanowski)さんは、1882年10月6日にロシアはウクライナのティモシュフカというところで生まれました。
ポーランドの作曲家なのに、なんでロシアで生まれたかというと、それはポーランドの歴史を語る必要があります。
簡単に言うと1882年当時のポーランドはロシアに割譲されていました。
1882年というのは日本で言うと明治15年のこと。
シマノフスキが生まれた年の日本は?
明治15年、日本ではどんな事があったかと言うと、
- 上野動物園が開園したり板垣退助が遊説中に暴漢に襲われる(岐阜事件)
- 伊藤博文がヨーロッパ視察へ
- 東京の新橋ー日本橋ー浅草間の鉄道が開通
- 日本銀行開設・早稲田大学や駒澤大学が開校
世界の音楽の状況を見ると、この1882年には、チャイコフスキーの「1812年」が初演、スメタナの「我が祖国」初演があります。
シマノフスキ音楽街道
そんな1882年にカロル・シマノフスキさんは、ポーランド貴族の家庭に生まれました。
シマノフスキ家4人の兄姉妹の3番目の子供。
音楽を愛する家族の中、カロルは父からピアノの手ほどきを受けました。
10歳で音楽学校に入学。
1918年にポーランドが独立を遂げると、シマノフスキ家はワルシャワへ移住しました。
この頃からシマノフスキは祖国ポーランドの音楽に興味を持つようになったと言います。
同じポーランド出身の作曲家ショパンは、ポーランド北部低地地方の民謡の影響を受けていたそうです。
それに対してシマノフスキは、ポーランド南部のタトラ山地の民謡(主に牧畜農民の民謡)から影響を受けました。
シマノフスキが「ポーランドの農民は芸術家に匹敵する」と語ったというエピソードが残っています。
シマノフスキの作品
シマノフスキは交響曲を4曲、ヴァイオリン協奏曲を2曲、ピアノ協奏曲を2曲、弦楽四重奏曲などの室内楽曲、オペラをなどの舞台作品、そしてピアノ曲や歌曲・合唱曲を残しました。
ピアノ曲にはソナタ・練習曲・マズルカ・変奏曲・前奏曲・幻想曲・前奏曲とフーガなどがあります。
シマノフスキの変奏曲Op.3
今日はシマノフスキのピアノ曲の中で、多分演奏されることが多いのではないかと思う「変奏曲」Op.3を取り上げましょう。
シマノフスキの「変奏曲」Op.3は1903年に作曲され、1910年に出版されました。
作曲から出版まで、ちょっと時間がかかりましたね。
シマノフスキの「変奏曲」Op.3は、主題と12の変奏から成ります。変ロ短調。
厳かな、ちょっと怖いような、でも何かが始まりそうな、何かが起こりそうな予感がする主題は、様々な性格に変奏されていきます。
最後の第12変奏はフィナーレにふさわしく、豊かに盛り上がりを見せますが、弾き手にとっても技巧を要求されるだけではなく、音楽的に考えさせられる壮大な作品です。
ピアノ動画*シマノフスキ「変奏曲」Op.3
お聴き苦しい点もありますが、宜しければお付き合い下さいませ。
シマノフスキ作曲「変奏曲」Op.3
2012年5月23日
香港聖ジョン大聖堂でのランチタイム・リサイタルから
大聖堂の、窓もドアも全て開け放った中、たくさんのお客様(近所のビジネスマンたち)がお見えになりました。
5月とはいえ、香港はすっかり夏。とても暑くて私は汗ダラダラで弾いていました。
時折、外の鳥たちのさえずりも聞こえますよ。
あなたも何かシマノフスキの作品を弾いてみませんか?
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